アートを創造する企業 Giraffe Ltd. 
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 [No.032]     2006.07.25


──IT企業とスポーツ3・世界の距離をゼロにする集客力──
 
 
 先のサッカーワールドカップでは、yahooが運営する公式サイトには一日平均で200万のアクセスがあった。国を問わず、環境を問わず、時間すら問わずに日々200万人が情報を求めて訪れる。改めて、インターネットという世界が解き放った時間と空間を超越した利便性を思いしらされる。
 今回考えたいのは、企業としての実利の面である。「たとえ、200万が1000万だとしても、ホームページにアクセスするのは無料なのだから、yahooに利益は出るのか?」
 ビジネスとして見た時のインターネットの世界のからくりを、少し覗いてみたいと思う。
 yahooや楽天などといった、不特定多数に情報を提供するインターネットサイトを「ポータルサイト」というが、このサイトのメインとなる収入源として『広告収入』というものが存在する。軽く覗いてもらえればわかると思うが、何か特定の商品や企業を宣伝するスペースが必ず設けられており、そこをクリックすれば、その宣伝元のホームページへとジャンプすることができるようになっている。宣伝をしたい側がポータルサイト側に対して、特定の金銭を支払ってスペースを貸してもらうという、もともと新聞や雑誌などの紙の世界で古くから採用されていたシステムが、インターネットの世界でも当然のように取り入られているのだ。
 ところで、宣伝をする側としては、金銭を投資する以上、より効果が高い場所に対して行いたいのが道理だ。新聞や雑誌であれば、発行部数・売り上げ部数などといった数字がその判断基準になるが、ポータルサイトの場合、これが「アクセス数」になるわけである。
 一日100人が見る場所と、1000人が見る場所のどちらで宣伝したいか。広告を出す側の判断基準は、突き詰めてしまえばそこであり、だからこそ、ポータルサイトにとっては平均的なアクセス数がどの程度なのかは、1つの生命線となっている。
 サイトにアクセスする側について考えてみよう。幅広い情報が豊富に入手できるサイトと、そうでないサイト。どちらも自由に好きな方を見られる立場で、どちらを選択するのか。ユーザーに1回でも多くアクセスしてもらうためこそのコンテンツの充実であり、数あまたあるコンテンツの中でも、現在、もっともユーザーの反応が良いといわれている分野、それがスポーツなのだ。
 個人的な話になるが、無類のサッカーファンである私は、ワールドカップ期間中はほとんど毎朝『ヤフースポーツ/サッカー』のページにアクセスして情報をチェックしていた。情報提供の速さ・正確さ・そして豊富さにおいて、いくつかある他のポータルサイトのスポーツコーナーより優れていることが明確だったからだ。その際、画面の一部に気になる宣伝文句や画像を見つけて、思わずクリックしてしまい、気が付けば違うページに飛んでいたなんてこともままあった。宣伝広告のシステムに見事にやられたわけだが、その結果として、今まで存在を知らなかった企業なりイベントなどを見つけて、かえって有益に感じたこともあるので、正直あまり「やられた感」はなかったりするのだが。
 見る側にとって「ブランドイメージ」というものも大きい。「オフィシャルパートナーまでやってるヤフーなら情報も豊富だし、まずなんでも載ってるだろう」と、見る側はそう思う。事実、なんでもとまでは行かなくても、それに近い満足度は供給していただいた。おそらく今、「ネットでサッカーについて見る時はまずヤフーから」という地位の確立には成功している。そして、それこそが、ポータルサイトにおける集客の基本にして王道なのだ。
 サッカーという市場における情報提供ナンバー1を確立した。それが、サッカービジネスに関わる数多の企業との提携を生み、充実していくコンテンツは更なるユーザーへの魅力となってアクセスをあげていく。この連環を理想として広げていくことが、ポータルサイトという存在を「金銭が動くビジネスのアイテム」として成立させている。
 日本からも、アジアからも、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、世界のどこからでも一瞬でアクセス出来る。この特殊性が、そもそもからインターネットを「対世界向け」のアイテムとしている。
 国内など、限定された領域での影響力のみを求めるならば、ドイツやヨーロッパの人間が何人利用してくれた所で、あまり意味はない。インターネットという道具を武器にビジネスを生み出そうと発想した時点で、はじめから照準が「世界」なのだ。
 だからこそ、世界というキーワードで見た時に、切り札となるべきコンテンツが「スポーツ」なのである。
 これから先、IT企業はさらに熱を入れてスポーツと関わろうとしていくのは間違いない。今回はあえて、ポータルサイトのもつ「広告収入」という直接に金銭の動く部分をクローズアップしたが、ITビジネスという意味では、それは確かにおさえるべき王道ではあっても、あくまで手法の1つである。
 次回は、これからのITとスポーツが、どういう取り組みに向かっていくのか、また、どうすることによって更なる発展・進化を狙っていくべきなのか。それらを考察していってこのテーマのまとめとしたい。


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 [No.031]     2006.06.28


──IT企業とスポーツ・2 40億人を支配するyahoo──
 
 
『世界の人口の10人に9人がなんらかの形でサッカーに触れたことがある』。
 フットボール──日本ではサッカー──が持つ世界性を説明するのに使われる表現だが、「なんらかの」を、ボールに触ったことがあるや、TVで見たことがあるなどまでカウントすれば、やや大げさではあっても決して誇張ではない。
 例えば、国連加盟国は現在191カ国だが、FIFA──国際サッカー協会──加盟協会数は207である。これはイギリス代表チームというものは存在せず、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4つは別協会で登録されていたり、同じように香港と中国は別の協会であったりなど、独立国=1という方式でないゆえだが、それにしたところで、国連加盟国を凌駕する数の組織が競い合うスポーツなど、サッカーの他に見出せないのに違いはない。
 10人に9人が認識している──なるほど、誇張ではない。
 さて、そのサッカー界における最大の祭典であるワールドカップがまさに今開催されている。日本代表の成績や動向に目を向けるのはおいておくとして、前回でも軽く触れた「オフィシャルパートーナー」というものを、もう少し深く追ってみるとしよう。
 ワールドカップはスポンサーのスポンサーによるスポンサーのための世界最大のビジネスマーケットである。この表現も皮肉のスパイスは効いているが誇張ではない。50億とも言われる契約金によってはじめて認められるその肩書き。アディダス、コカ・コーラ、フジフィルム、マスターカード、ヒュンダイ、マクドナルド、東芝、ヤフー。。。。。まだまだあるが、この時点でもあることに気づかないだろうか。そう『1つのジャンルで1社』が原則であるのだ。
 経済市場、というものが競合による切磋琢磨のしのぎ合いが前提であることは説明するまでもない。独占という言葉にはネガティブなイメージすら付きまとうほどだ。だが、サッカーワールドカップにおいては『そのジャンルにおける権利の独占』が基本にして原則である。大会期間中、スタジアムでは当然のごとくペプシの販売は許可されないなど、どのジャンルを覗いてみても面白いのだが、テーマとタイトルにそって、ここではヤフーをチョイスして話を進める。
 大会公式サイトを運営するのはヤフーである。それはまあ当然だろう。恐ろしいのは『ヤフーIDを所有しないプレスは大会の取材が実質不可能』という点だ。一般に向けた公式サイトとは別に「メディア・チャンネル」というプレス向けのサイトが存在し、取材申請や会場出入り許可など大会組織委員会とのやりとりは、ほぼここを経由して行われる。このサイトの運営者は当然ヤフーであり、そのコンテンツを利用する以上、ID登録の要求もまた当然、、、、というわけだ。
 こんなケースもある。大会会場の1つであるハンブルグのホームスタジアムは正式名称を『AOLアレーナ』という。いわゆるネーミングライツ(企業が金銭で施設の命名権を獲得するビジネスシステム)による効果である。が、大会中、このスタジアムはその名を名乗ることが禁止されている。理由はただ1つ、AOLはインターネット系IT企業である=オフィシャルサポーターであるヤフーの競合である、だ。大会運営組織(FIFA)にはそれだけの力があるから凄まじい。
 オフィシャルによる独占的恩恵、これの徹底振りは上記の例だけでもかなり伝わったと思うが、それだけでは50億払う対価としては弱い気もする。実利面、それも数多のジャンルの中で特にITをピックアップした意味としての、世界で最もグローバルなスポーツであるところのサッカーとITが繋がることによるその圧倒的相乗効果、これを読み解かなくてはならないのだが、これは次回に引っ張りたい。


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 [No.030]     2006.06.10


─IT企業とスポーツ・1 世間との直接性─
 
 
 村上ファンドは阪神に手を出したから崩壊することになった──意外にそんな声がよく聞こえてくる。事実を象徴的には捉えているし、日本人が持つ「阪神タイガースとそのファン」というイメージにはしっくりとはまる表現なので、つい頷いてしまいたくなる。
 もちろん、直接の逮捕理由はライブドアのニッポン放送買収劇に繋がる証券取引法違反であって、「阪神に手を出した」からではないのは周知の通りなのだが。
 阪神ファンの憤りと「それ見たことか」という溜飲はさておくとしても、IT企業=スポーツ組織に手を出す、というイメージが定着しつつあるのは何故だろうか。ソフトバンク、楽天、ライブドア、そして村上ファンド。仕掛けの成否はおくにしても、みな一様にスポーツ球団の所有に執心した。『スポーツ』というものはビジネスという観点から見て、それほど「美味しい」カテゴリなのだろうか?
 俗にサッカー、F1、ゴルフをして「世界の三大スポーツ」と呼ばれているが、それは人気や競技人口、あるいは華やかさや、その競技自体の魅力からによるランキングかというと、それだけでは絶対的に不足しているファクターがある。それが『経済的市場性』だ。世界の三大スポーツというのは、同時に「スポーツという世界で最も金が動くトップ3」でもあるのだ。
 超巨大ビジネスマーケットのスポーツといえば、今のタイミングなら「サッカーW杯」が容易に連想されるのではないだろうか。ドイツ大会での経済的ビジネス規模は約3000億円とも言われている。この大会を通じて企業が広告宣伝をするためのオフィシャルパートナー契約に必要な契約金は50億円とも言われており、まさに世界でも屈指のビジネスイベントであることがわかる。
 昨今では、日本でのサッカー人気も右肩上がりの安定傾向に入ってきたが、つい数年前までは、日本国内で「巨大産業としてのスポーツ」といえば『野球』だった。だいぶ迷走してはいるものの、まだまだ日本ナンバー1スポーツの地位に留まり続けている。
 野球とサッカー。マーケットとしての構造が異なるゆえ、一括で語ってしまうのはなかなか危険なのだが、あえて「スポーツビジネス」としての共通項で見てみると、いずれも欠かせないのが『世間との直接性』だ。直に見、触れ、味わい、共有し感動し合えるのがスポーツの最大の魅力であり、人気の根幹となっている。
 一方で、この『世間との直接性』が最も弱いと言われているのが『IT業界』だ。電子の世界を秒単位で数字としての金銭が飛びまわる、地に足のつかない不安定で不透明なグレーワールド。どうしてもそういったイメージを払拭しきれない業を抱え込んでしまっている。
 先天的に弱点を抱えるならば、他から持ってきて補完すればよい。思考方法としては極めて正当である。つそれは、競合他社がみな同様に思考するということでもあり、だからこそ、ITという称号を冠に頂く企業たちは、滑稽なまでに異様な執念と拙速さをもって「球団」という「直接性の高いコンテンツ」を奪い合う狂乱劇の舞台に上がった。
もちろん、彼らがこのジャンルへの進出に挑んだ理由としては、それ以外にも多々の要素が複合的に存在している。媒体宣伝力の高さ、企業イメージとの連動効果、それから悪しき伝統であるところの、オーナーズブランドという対外的誇示としての魅力という幻想も無視できない要素だ。
 ソフトバンクが、楽天が、この「スポーツ球団」という武器の入手に成功し、ライブドアが村上ファンドが届かずに消えた。そう書くと「球団買収に失敗すると会社崩壊」なんて皮肉な法則の1つも打ち立てたくなるが、それはそれとして、次回はITという世界が持つもう1つの顔、「グローバリズム」という可能性を、「サッカーW杯」を舞台に見ていきたい思う(榎元敦)。


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 [No.029]     2006.05.13


─記念日─
 
 
 母の日はなぜ5月の第2日曜なのか。諸説あるが、一番有力とされているのはアメリカからの由来説である。
 1900年代初頭、ヴァージニア州でアンナ・ジャービスという女性の母親が亡くなり、彼女は無き母を偲ぶために、協会で白いカーネーションを配ったが、その日が5月の第2日曜日だった。この風習はアメリカ全土に広がり、そのまま日本にも伝わったという。
日本ではじめて母の日を祝う催しが開かれたのは明治末期で、大正4年に協会で行われたことから一般にも伝わりだしたとされていて、このアメリカ由来説を後押しする形になっている。
 昭和初期には当時の皇后の誕生日を母の日と制定していた時期もあり、現在の形でのイメージで「母の日」が定着したのは戦後からだとも言われている。由来というのは諸説あるものだが、この母の日に関しても同じようだ。
 実は「母の日」を一般に広く流布させたきっかけとして知られているものがもう1つある。森永製菓が昭和12年に告知した広告だ。企業としてはじめて「母の日」という概念を提唱した広告とされていて、これが現在の「母の日」に至るともされている。
 由来に諸説あるのは当然としても、森永の告知が大きな誘導力を担ったのは違いなさそうだ。昭和初期の森永製菓といえば、「キャラメル」という、それまでの日本には存在しなかった食べ物を世に広めようと奮闘していた時期で、決定打の摸索のなか「記念日」の提唱というものに行き着いたのだろう。国際的に母性愛の象徴とされているカーネーショーンが世界的には定着している「母の日」だったので、現在『母の日といえばキャラメル』とはいたらずだが。もっとも、『森永製菓』というブランド認知の方が主目的で『あの森永が提唱した母の日』というイメージングが達成されれば、必ずしも『母の日=キャラメル』を狙っていたわけでもない、という声もあるが。
 企業が提唱する記念日、としての最大の成功例は『バレンタインデー』だろう。バレンタイン=チョコという図式が告知によって誘導され定着されたものであることは、非常に有名である。
 ロッテがしかけたなどともいわれているが、実際にはじめて「バレンタインチョコ」という告知をうったのは1936年の神戸の洋菓子店だ。1958年には新宿の伊勢丹で「バレンタイン・セール」が開催された。そういった流れの中、1970年代に入ってチョコレート自体の消費需要が高まるのに合わせて、ロッテなどの製菓メーカーの告知広告により、爆発的な流行・定着が生み出されていったのだ。
 企業が販売戦略として「記念日」とのタイアップを狙うというのは珍しい話ではなく、定番手法といってしまってもよい。「バレンタインデー」が生み出した社会的効果はやはりどの企業にも無視できない魅力として映るのだろう。
 考えてみれば、結婚指輪に給料の3倍が必要なのも、その10年後にはダイヤモンドを贈った方がいいのも、すべて企業が生み出した概念である。5月の大型連休が『黄金週間』などと呼ばれ旅行の1つも行かねばいけない気にさせられるのもしかりだ。
 母の日。バレンタインデー。婚姻に旅行。すべてがライフスタイルの1コマであることが面白い。生活に違和感なく入り込んでいけるものほど、一般は受け入れるということだろう。
 裏をかえせば、世間が企業に求めているものは、ライフスタイルを彩りサポートしてくれる提唱だということだ。企業が売りたいだけでは誰も買ってくれない。
 
 今や人生80年から90年。その中の1年365日。まだまだ空き部屋はたっぷりある。販売戦略の決定打を欠いているなら、毎日が新しいライフスタイルパッケージを提唱するチャンスだ、とも考えられるのではないだろうか(榎元敦)。


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 [No.028]     2006.02.23


─必然の結果と日本式スポーツの限界─
 
 
 国内での経済効果はおよそ2600億円ともいわれるトリノオリンピック。終幕も近付いてきて聞こえてくるのは、「期待外れ」「こんなはずでは」「メダル0だけは…」といった悲観や憤りのため息ばかりだ(原稿時点でメダルの期待性が残るのは女子フィギュアのみと言われている)。
 犯人探し、とまではいわないが「なぜこんなことに?」と要因を追求しようとする動きも出てきた。その中の大きな一つとしてスポーツ関係者・専門家があげるのは<大手企業のマイナースポーツに対する見切り>による環境不備・層の弱体化・育成の困難化である。
 日本も東北圏や北海道から知れるように否雪国というわけではない。だが、全体においてウィンタースポーツはマイナーであり、人気・認知度・経済基盤の全てにおいて、野球やサッカーといったメジャースポーツに遠く及ばずにいる。
 もともと《日本企業的》あるいは《日本社会的》スポーツの形態というのは、企業が所有物としてチームを抱えて、それぞれで覇を競い合うという「企業オーナー制」が主流であり常識だった。国民的人気スポーツである野球こそ<プロ契約制度>を導入出来ていたが、マイナースポーツともなると、チームとはすなわち企業内の部活であるため、入部するには当該企業に就職するしかなかった。いわゆる『実業団』という形態だ。
 だが、バブル崩壊あたりをきっかけに、企業は本体の経営を保守するために直接利益に繋がらない部門を縮小・撤廃していく必要にせまられた。雪印(当時)はアイスホッケーを、王子製紙やコクドはスケート部を、またウィンタースポーツではないがバレー・バスケット・陸上といった実業団が次々と廃されていった。
 企業が手を引くのは不景気からだけではなく、もう一つ深刻な悪循環からだ。所有するスポーツ選手に求めていたのは、自社の宣伝媒体、営業広報としての役割。10割とは言わぬまでも8割は占めていたのが現実だ。
 宣伝媒体として有効と認識するには、その選手がスターでなければならない。スターとは人気と環境が整っていなければ誕生しがたい。人気がなければ育成や環境整備に回す資金の捻出は難しく、良い設備と高いレベルで磨き合える競技環境なくして選手は育たない。かくしてマイナースポーツは《投資しても旨みがない》という烙印を押されたのである。
 生まれ育った土地がすでに天然かつ最上の育成環境である北極圏の国や、メダルを取るためだけに国家予算を投入しての強化体勢を引いている中国などが祭典で主役となり、日本はそこに届かないというのも、なるほど、期待外れではなく必然なのかもしれない。
 
 日本企業にとってスポーツは所詮、利益のための道具だった…などと言い切る気はない。そうでないスタンスの企業も多数存在するだろうし、そもそも金銭を投資するからには相応の見返りを見込むことは当然であって恥じるようなことでもない。ただ、国内最大のメジャースポーツである野球ですら、動脈硬化を起こしつつある現実をもはや無視できなくなってきている。昨年来からの騒動を紹介するまでもなく、『スポーツチームは企業の私物でよいのか?』という思いは、強く浸透しはじめている。
 ファンは敏感だ。その企業が、そのスポーツに対して真剣に取り組んでいると思えなければ、急速に冷めていって企業そのものを見切ってしまう。
 現在は個人レベルでのプロ化など、選手サイドから企業に頼るまいとする流れも活発になってきた。だが、それはやはり圧倒的に力ある選手や、ある程度以上は知名度がある競技での話で、マイナースポーツではやはりまだまだ企業の投資援助なしで成り立つ基盤は備わっていない。せっかくスポーツというジャンルがあり、世界中から注視される国際舞台があるのだから、これからは積極的かつ長期的な視野に立った企業サイドからの「仕掛け」が期待される時代だと思う。
 企業のプロデュースでマイナースポーツをメジャーに引き上げ、いずれは「○○という企業がずっと支えてきてくれたから、このスポーツで世界のメダルが取れた」と、そう言わせてはじめて誉れとするぐらいの心意気が欲しい。現実的にはなかなかに夢見がちな話かもしれないが、オリンピックという祭典は《平和の祭典》と呼ばれるのと同時に《夢の祭典》と呼ばれているのだ。企業がスポーツそのものに夢を見るのも悪くないはずだ(榎元敦)。


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 [No.027]     2006.02.10


─松下電器が示した企業責任と精神性─
 
 
 松下電器より一枚のハガキが届いた。
 20年〜14年前のナショナルFF式石油暖房機を探しています──


 このナショナルの該当製品を使用していたペンションで、給排器から漏れ出た一酸化炭素により死者・重体者が出たこと。経済産業省から消費生活用製品安全法第82条に基づく緊急命令が下されたこと。この2つを中心に、自社HPは当然として新聞、CM、あらゆるメディアでの呼びかけを開始した。しかしそれでも通達が不十分であるとし、下された決断がこの一枚のハガキ──配達地域指定冊子小包の発送である。

 配達地域指定冊子小包とはその地域に登録されている郵便番号全てに配送されるシステムで、日本全国では約6,000万世帯となる。文字通り「日本の全ての家庭に直接呼びかけた」わけだ。だから企業義務・責任を果たしたなどということではないし、問題が全て解決したわけでもない。だが、少なくとも松下はそこまでは行ったという事実は大きい。

 まるで今年は草刈の時期であるというように、年頭から無数の社会的・企業的偽装、捏造が発覚し、メディアを賑わせている。マスコミが話題性のために好んでふてぶてしく言い逃れる企業ないし個人を取り上げている傾向もあるだろうが、ヒューザーや木村建設、東横インといった建設偽造の諸問題から立ち昇ってくる腐臭──責任回避と自己憐憫の化合物には、企業責任やら社会精神なんてお題目以前に、企業そのものの存在意義を考えさせるほどの深刻さがある。まったく、鼻を摘まんで誤魔化している場合ではない。

 この流れと松下の給排気のトラブルはもちろん同列には扱えない。構造的問題の発覚を受けてのリアクションと、根本的な偽造・捏造による犯罪。まったく性質が異なる問題であるのを承知であえて言いたいのは、『企業性・社会性の評価』などというものは行動と結果があってこそだという再認識である。

 85年〜92年製のナショナルFF式石油暖房機の給排器に構造的な問題がある。経済産業省からの指導も入った。口だけで回収する、補填すると言うのは誰でも出来るが、松下はなにより死傷事故の原因の一端となってしまったことへの危機感を最重要視し、同種の事故の発生を防ぐためにもまず消費者に知らせること、問題機器の使用をストップさせることを考えた。結果として日本全国6,000万世帯にハガキを出した。問題の製品の引き取り、点検修理に触れている一文からどうしても抜き出して紹介しておきたい一行がある。

 なお、既に点検修理をされたお客様にも、ご要望に応じ、シーズンオフにお引取りをさせていただきます。

 松下電器という企業が持つ精神はここにあると見た。構造的問題があると言われたところですぐには手放せない人がいる。ならばまず直し、その上で時期を見て引き取る。スタートが構造的欠陥へのリアクションというマイナス面が際立つものであるゆえ、そう手放しに評価・賞賛するものではないのだが、起きてしまったことから逃げず誤魔化さずに最善を尽くしていると思う。
 
 企業として最善を尽くす──そのことに上限はない。松下のハガキにしたところで全国に出したのだからもう充分だろうということでもない。メディアの前で最善の約束を連呼している捏造者たちは問題外とするにしても、一般の健全な企業にしたところで、『ここまでやれば大丈夫だろう』と思った時が企業としての前進が止まる時だと、そう自覚して動かねばなるまい(榎元敦)。


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 [No.026]     2006.01.26


─ライブドア・ショックと企業のスタイルの意義─
 
 
 証券取引法違反など、幾つかの不正取引があったとして行われた一連の強制操作から堀江貴文社長の逮捕まで。今最も注目されている事件としてこれ以上のものはないだろう。
 個人投資家達のパニックによる東証の機能麻痺、前回総選挙の際に自民党が堀江氏を支持していたこと(形式上は無所属として出馬・落選している)による野党の突き上げなど、時代の寵児と呼ばれた男は、それでもなおマスコミの寵児として連日報道されているが、この事件によって本当に考えなければならないことはなんだろうか。
 錬金術─そう呼ばれたライブドアの企業買収活動は、全てが株価のためのものであり、イコール企業価値の底上げであり、それが全てだった、本体にはなんの実体も実績も──たとえばyahooや楽天市場のようなIT企業として核となる業務体系が──存在しなかった。連日TVや紙面を飾る専門家の指摘からは、そういう声が実に多く聞こえてくる。それはまったくその通りなのだろうが、究極のところ、ライブドア・ショックというのは会社のために人がいるのではなく、人がいて集い組織として会社になるということ、その基本的過ぎる認識の欠如がもたらした現象だったのではないだろうか。
 一時期、底の底にまで落ちた日産を救い這い上がらせたカルロス・ゴーン氏は、自身の最上の趣味がドライブであり「自動車を愛してるいるならば大丈夫だ」と断言したという伝説を持つ。それはあるいは多分に啓蒙・発奮的計算を含んだ発言だったのかもしれないが、やはりそれはリスタートラインとして絶対的に必要な精神であり、哲学だったのだろう。それなくして日産のあの奇蹟の復活はなかった。そういうことなのだと思う。
 比較して、ライブドアには企業としての「核」となるべき道標は屹立していたのだろうか。あるいはそれこそ「株価」であり「時価総額」だったのかもしれない。経済が持つマネーゲームという側面。それは確かに存在する現実であり、それはそれで良い。ただ、その場合はファンドであることに徹底してしまっても問題ない話である。しかしライブドアはIT企業を謳った。それは堀江氏とってのはじまりが「ソフトバンクを超えたい」という思いだったからなのだろう。そのことはメディアに露出するたびに匂わせていた。「自分は孫氏を越えたいのだ」と。
 誰かを超えたい、という思いをスタートに歩み出す人間は意外に多い。そしてそれは決して悪いことでも間違った入口でもない。しかし一方で、スポーツの世界などではよく言われる格言がある。「誰かに憧れてそうなりたいと思った時点で、その人を超える選手にはなれない」と。

 憧れは美しく、超克のための努力はなお美しい。だが、やはりそれは個人レベルでの話だ。会社──企業とは人材の集合体であり、なにかを得意とし、愛し、それをしてなにかを生み出し広げ成し遂げたいという意志の発露の場なのだと思う。
 堀江氏がライブドアという企業を通じて何を成し遂げたかったのか。宮内氏らをはじめとる幹部諸氏は何を成し遂げたかったのか、一人一人の社員はそこで何をしたかったのか──それらを集束し、発露させる器としての「ライブドア」であったのか。
 その答えが「株価」であり「時価総額」であり、あるいは「ソフトバンクの超克」であったならば、そのための手段として違法を選択したことは愚かではあったが醜くはない。そうとも思えるのだが、どうなのだろうか。(法律に背くことは社会に生きる者として最低であり、企業・組織としては最悪であることは誤解のないように強調させていただくとするが)。

 ライブドアは無名有名多岐に渡る企業を買収してきたが、ここで特に注視しておきたい企業がある。通販企業として、あるいは美容・健康関係を取り扱うメーカーとしてメジャーであるセシールだ。あのセシールまでライブドアグループに? と驚かれる方もいるだろうか。楽天市場などで知られるように、いまやIT=ネットショッピングという認知度は常識に近くはなってきている。そういう意味ではあるいはこれは「株価」だけに留まらない、実質的な買収活動だったのだろうか。
 ソフトバンクがyahooを持ち、楽天が市場を持ち、あるいはUSEN(旧有線)がGyaOという独自のスタイルのネットワークコンテンツを促進しているように、ライブドアもまたオリジナルな一大ネットワークコンテンツを創り上げることに本懐を置いていたのだろうか。そうであれば、堀江氏はメディアで「株価」と1回言う間に、そのことを20回ほど叫んでいた方が正道だったのではないか。
 もっとも、はじまりから今回の破局に至るまで「株価を上げること」「M&Aで突き進むこと」のみを絶対的かつ至高のビジョンにしていたのであれば、これはまったく余計な差し出口でしかないのだろうが。

何がしたいのか──それが見えない相手に対しては受け手側も及び腰になる。これは本当に他人事ではなく、自らを省みて深く考えさせられた。
 今、ジラフという組織があり、企業がある。アートワークを誇りとし、それを現在の「核」としているこの組織を構成する一人として、「人と人とのつながりこそアート」というスタイル。
 奇麗事のように聞こえるかもしれないが、そういった当たり前のこと、基本的なことを大切にすること、そのくり返しこそが企業としての成長、また同時に個人としての成長にとっての一番の近道なのだと、ライブドア・ショックとはつまり企業という集団組織に再確認するよう示してくれたとすら思ってしまうのは果たして傲慢な解釈だろうか。

 余談だが、宇宙ビジネスにも進出などと謳われてメディアに取り上げられたこともある堀江氏だが、その時の表情が一番輝いて見えた筆者である。本当に好きでやりたいことだったからだろうか(榎元敦)。


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